古市憲寿『平成くん、さようなら』を読んで

「私」は平成君が死んでなお、話し続けるのだろう。

僕は純文学どころか小説自体ほとんど読まない。古市さんのTwitterをみながら「さようなら」になにか深い意味があるように思って手に取った。

「平成君」は安楽死を望む男である。「平成」と書いて「ひとなり」と読ませる。平成君は原子力発電所で働く若者たちへの聞き取りが東日本大震災後に書籍化され、メディアの寵児となる。震災への関心が失われたあとも得意分野を変えながら精力的に活動する。

「私」はネットでバイブレーターの品定めをしていたときに平成君から安楽死したいという相談を受ける。「私」と平成君は六本木で食事をしながら安楽死の話をする。

平成君は「平成」という名前だったために平成を振り返る企画にひっぱりだこだが、平成が終われば終わった人間になるという。年齢的にもこれまで以上のものを残せるとは思えないというのだ。「私」は平成君に反論するが、要領を得ていないと感じる。

デザートとしてチョコレートアイスが出てきたとき、平成君の皿にはピーマンとエリンギが残っている。「私」は皿を下げないように言う。怪訝な顔をする平成君に「私」はこう言う。

「見ててあげるから、今日は食べて」

すると平成君はピーマンとエリンギを手づかみで口のなかに放り込み、水とともに一気に流し込む。平成君は苦悶の表情を浮かべる。それを笑いながら見る「私」はどこかサディスティックだ。

エリンギはともかく「ピーマンが嫌い」というのは平成君が子供っぽいと言いたいのだろう。平成君は知的だが、人間的な欠陥を持った人間として描かれている。いくら嫌いとはいえ、レストランで手づかみでピーマンを口に放り込むひとがいるだろうか。

僕はこれまでいろいろな人を見てきたつもりだけれど、いままでそんなひとに会ったことがない。古市さんは『絶望の国の幸福な若者たち』で脱原発などの政治活動をする若者たちを描いた。まさか珍獣を探すために政治活動を取材に行ったわけではあるまいが、この小説からは古市さんの珍獣好きが伝わってくる。僕は鏡を見ながら「世の中には本当に訳の分からないひとがいるんだな………」と思う。

小説の本文では平成君の死について直接の描写はない。最後のシーンで「私」は食事を終えて平成君と別れる。そして暗い自室で「いつ平成が終わったのかまるでわからなかった。」という一文で終わる。この小説は安楽死をテーマにしながら、いつ平成君が死んでしまうのか分からない「私」の悩みを描いている。

安楽死の見学や温泉旅行……「私」は平成君の死を意識しながら最後の時間を過ごす。セックスの描写もある。安楽死という要素を除けば、普通の恋愛を描いた作品になるだろう。ひたすら珍獣である平成君への愛を語っている。

平成君は「私」にスマートスピーカーを渡す。平成君が個人的に書いたメールからはじまって、本やテレビ、Twitterでの発言を学習させたものだ。「私」はスマートスピーカーと会話することで永遠に平成君と話すことができるのだろう。

純文学にうといせいかよく分からなかった箇所もある。最後の食事を終えて部屋に帰る前、平成君は助けが必要になったら「本当に何時になっても駆けつけてくれる」というのだ。これから死ぬひとがいつでも駆けつけてくれるとはどういうことなのか。もっとも、余韻を残すものなので、論理的にツッコミを入れるのは野暮なのかも知れない。

平成君はずっと「私」のなかで生き続けているのだろう。

トランプ大統領にも言論の自由はある

アメリカで400の新聞社がトランプ大統領の批判のための社説を掲載したという。トランプ大統領を批判するためとはいえ、そこまでするのかと思う。アメリカの新聞界がそれだけトランプ大統領に警戒感を持っているということなのだろう。

天声人語子はこの問題を取り上げ「報道に腹を立て、逆恨みし、ツイート文案を練り、発信するのにどれほどの時間を費やすつもりなのか。」と結ぶ。大統領としての職務に励めということなのだろうけれど、これはいただけない。トランプ大統領にも言論の自由はある。

有力紙でも一斉社説に賛同しなかったところもある。ワシントン・ポストは「組織的な取り組みには加わらない」として同調しなかったという。独立性を貫きたかったのだろう。トランプ大統領批判は自由だが、一斉に社説を掲載する必要があったのだろうか。

報道機関を敵視するトランプ大統領は民主主義の敵だと思う。しかしフェイクニュース批判には一理ある。正確な情報に基づく議論でなければ民主主義は成り立たない。報道機関はネットに流れる出所不明の情報を検証してほしい。

立花隆のオウム観に反駁する

麻原彰晃の死刑について立花隆が書いた文章(『文藝春秋』2018年9月号)を読んだ。

立花隆はオウムのような事件が「宗教の歴史からいって、いつでもありうる」と言う。しかし僕は、宗教であるかどうかではないと思う。ありとあらゆる組織において、指導者の人格・識見によって大事件は引き起こされると思うのだ。

僕は麻原の超能力に興味はない。しかし、彼の政治的な動きには興味がある。麻原はアメリカに毒ガスを撒かれていると信者に吹き込み、ロシアから武器を調達しようとした。その一方で共産党の弁護士を殺害した。

僕はひとつの問いを立てた。オウムは反米の一点で共産党と協力することはできなかったのか、というものだ。共産党とて信教の自由を否定してはいまい。この問いに対する答えは、麻原が単に気に入らない者を排除するという発想を持つ者だったから、ということになると思う。

麻原の超能力に興味はないのだけれど、超能力を解明しようという若者たちの気持ちは分かる。立花隆は「さまざまな成功のチャンネルもあったはずだ」と言うが、超能力を解明することは並の成功どころの騒ぎではない。

若者たちの誤りは、ついていくべき指導者を誤ったことだと思う。

立花隆は滝本太郎弁護士の著作を引用しながら、麻原の空中浮遊の写真を批判する。それはごもっともなのだけれど、超能力研究のとっかかりすらないなか、ああいうハッタリで超能力研究をしたい若者を集めた麻原の構想は評価に値するものだ。それだけは評価したい。

しかし、ハッタリだけで超能力研究が進むはずはない。彼は学問に対する敬意がなかった。オウム真理教附属医院なるものに、医師免許を取得したばかりの医師を勤務させた。若者のほうが扱いやすいとでも思ったのだろうか。真理を追求することよりも自らの権力欲を優先させていたとしか思えないのだ。麻原の指導者としての資質の欠如は人格だけではなかったのだ。

世に新たな指導者が誕生するとき、その人格や識見を問うのはジャーナリズムではないかと思う。その責任は重い。
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