麻原彰晃の死刑について立花隆が書いた文章(『文藝春秋』2018年9月号)を読んだ。

立花隆はオウムのような事件が「宗教の歴史からいって、いつでもありうる」と言う。しかし僕は、宗教であるかどうかではないと思う。ありとあらゆる組織において、指導者の人格・識見によって大事件は引き起こされると思うのだ。

僕は麻原の超能力に興味はない。しかし、彼の政治的な動きには興味がある。麻原はアメリカに毒ガスを撒かれていると信者に吹き込み、ロシアから武器を調達しようとした。その一方で共産党の弁護士を殺害した。

僕はひとつの問いを立てた。オウムは反米の一点で共産党と協力することはできなかったのか、というものだ。共産党とて信教の自由を否定してはいまい。この問いに対する答えは、麻原が単に気に入らない者を排除するという発想を持つ者だったから、ということになると思う。

麻原の超能力に興味はないのだけれど、超能力を解明しようという若者たちの気持ちは分かる。立花隆は「さまざまな成功のチャンネルもあったはずだ」と言うが、超能力を解明することは並の成功どころの騒ぎではない。

若者たちの誤りは、ついていくべき指導者を誤ったことだと思う。

立花隆は滝本太郎弁護士の著作を引用しながら、麻原の空中浮遊の写真を批判する。それはごもっともなのだけれど、超能力研究のとっかかりすらないなか、ああいうハッタリで超能力研究をしたい若者を集めた麻原の構想は評価に値するものだ。それだけは評価したい。

しかし、ハッタリだけで超能力研究が進むはずはない。彼は学問に対する敬意がなかった。オウム真理教附属医院なるものに、医師免許を取得したばかりの医師を勤務させた。若者のほうが扱いやすいとでも思ったのだろうか。真理を追求することよりも自らの権力欲を優先させていたとしか思えないのだ。麻原の指導者としての資質の欠如は人格だけではなかったのだ。

世に新たな指導者が誕生するとき、その人格や識見を問うのはジャーナリズムではないかと思う。その責任は重い。